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2005年9月15日

記録された日常

アサイさんに五木寛之の「日記」を読んだコトを話したら、お互いの日記についての話しになった。

ワタシがノートに書く(書いていた)日記は、中学生の頃も大人になってからも一貫して、数年後に読み返してもわかるような文章になっている。例えば今夜の日記なら
「アサイさんと会社帰りにあの立ち飲み屋さんへ行った」
「お互いの移動メモに少しだけ書き合った」
「ビールで貫き通すと長持ちする」
「彼女が言ってたように、私は...」
というような調子で、今日を説明するいくつかの事柄とそれに連動する自分のキモチを書く。
他の誰かが読むなんて事はもちろん想定していないのだけれど(想像しただけでも凍りつきそう)、結果としては多少なりとも第三者(という自分)を意識した感じになっている。それは当然のコトだと思っていたし、なんとなく、世の中の人はたいていそんな文章で日々を記録しているもんだろう...とも思っていた。

でも、彼女は違った。

子どもの頃はともかく、大人になってからの彼女の日記は、自分で読み返してもわからないような言葉の羅列になっているとのこと。同じく例えば今夜の日記なら
「立ち飲み屋」
「ビールだけ」
「あの話しをした」
という感じになるらしい。うん、確かにこれぢゃあ自分でもサッパリわからないだろう(笑)
どうやら、他の誰かに読まれた場合に備えて固有名詞を省くようにしていたら、年々それが顕著になってきたみたいで。確かに誰だって自分の日記を他人に読まれるのはイヤだけど、そこまで備えなくてはイケナイ事柄満載な日々!?と勝手に想像してしまった。

不慮の事故に遭う場合もあるし、保存しておいたって読み返さないんだし、テキトウなところで処分しなくちゃダメだよねぇ...と、遠くをみつめる2人。廃品回収やゴミの日には出せないし、残された手段は焼却処分しかないのだけれど、お庭がないのでコレもまた難しい...

都会に住むほとんど人にはお庭なんてないワケで。
彼らは一体、どうやって日記を処分しているのだろう。

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